ニュースや教科書で「9カ国条約」という言葉を見かけたとき、9カ国というのが誰なのか、何を約束した条約なのか、パッとつかめなかった経験はありませんか?
わたしも最初に読んだとき、「中国に関する条約なのに、なぜ中国以外の国が主役みたいに見えるんだろう」と少し引っかかりました。『ゴイノワ』のナギです。
この記事では、9カ国条約の意味と内容を順番にほどいて、どんな場面でこの言葉が出てくるのか、似た条約との違いはどこにあるのかまで一緒に見ていきます。
9カ国条約、まず一言でいうと
9カ国条約とは、1922年にワシントン会議で結ばれた、中国の主権と独立を守り、門戸開放・機会均等の原則を国際的に約束した条約です。
調印したのは、アメリカ・イギリス・日本・中国・フランス・イタリア・オランダ・ベルギー・ポルトガルの9か国。1922年2月6日に署名され、発効は1925年8月5日になります。
「中国の条約」と言いながら、なぜ9か国も関わるのかと思うかもしれません。当時の中国はまだ外国列強から権益を奪われやすい立場にあり、各国が中国市場へどう関わるかを取り決めることが、国際政治の大きな課題だったんです。
どんな内容が決まったの?
条約の第1条に核心が詰まっています。大きく4つの原則が定められました。
- 中国の主権・独立・領土保全の尊重
-
どの国も中国を勝手に支配しようとしてはいけない
- 中国の自立を助ける機会の保障
-
中国が安定した政府を持てるよう妨げない
- 門戸開放・機会均等の確立
-
中国との商工業取引はどの国にも平等に開かれている
- 排他的特権の禁止
-
一国だけが中国で独占的な利権を取ることは認めない
ここで注目したいのは、この条約の根っこにある「門戸開放・機会均等」という考え方です。これはもともと、1899年にアメリカが打ち出した対中外交の原則で、9カ国条約によって初めて多国間の正式な条約として成文化されました。
日本にとってどんな意味があったの?
日本はこの条約に調印することで、第一次世界大戦中に中国へ突きつけた「二十一カ条の要求」によって得た権益の一部を返還するよう迫られる立場になりました。
それまでの日本は、欧州が戦争で忙しい間に中国でどんどん権益を広げていたので、この条約は実質的に「日本の一人勝ちを抑える」性格も持っていたといえます。ここはわたしも読み返して少し止まったところで、表向きは中国保護なんですが、列強側の力学も絡んでいるんですよね。
実際に日本は旧ドイツの権益として得た山東省の権利を中国へ返還するなど、ワシントン会議全体を通じて一定の譲歩を求められています。
ワシントン体制との関係は?
9カ国条約は、同じワシントン会議で結ばれた「四カ国条約」「ワシントン海軍軍備制限条約」と並んで、ワシントン体制を構成する柱のひとつです。
四カ国条約が太平洋地域の安全保障を取り決めたのに対し、9カ国条約は中国に関する国際ルールを担当していました。両方セットで覚えておくと、ワシントン体制の全体像がつかみやすくなります。
このワシントン体制は1931年の満州事変によって崩れ始めます。日本が満州へ軍事行動を起こしたことは、9カ国条約の原則、つまり中国の主権と領土保全の尊重に正面から反するものでした。
条約に実効力はあったの?
ここが少し気になるところなんですよね。9カ国条約には、違反した国を罰する制裁の仕組みが備わっていませんでした。
ナギ違反しても罰則なし、というのがこの条約の弱点
条約の言葉は丁寧でも、履行を強制する手段がない。だから日本が満州事変を「ワシントン体制の枠内」と強弁しながら進めたとき、国際社会は抗議はできても止められなかった。
国際条約というものが、署名しただけでは守られるとは限らない現実を、この条約はよく示しているように思います。
9カ国条約を読んで見えてくること
9カ国条約は、1922年に中国の主権尊重・門戸開放・機会均等を9か国が約束した条約で、ワシントン体制の要でした。アメリカが長年打ち出していた対中外交の原則を、初めて多国間の条約として成文化したものでもあります。
一方で制裁規定がなく、日本の満州事変を機に体制そのものが崩れていったことも歴史の事実です。「約束されたルール」と「それを守らせる力」は別物、というのをこの条約を通じて考えると、近現代の国際政治の見え方が少し変わるかもしれません。
教科書で「9カ国条約=中国の主権尊重・門戸開放・機会均等」と覚えるだけでも十分ですが、なぜその条約が結ばれたか、誰が得をしたか、どこで崩れたかまで追うと、ワシントン体制という枠組み全体がずっと腑に落ちやすくなります。












